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本吉町平貝 Oさんの話


※東京の栗山さんに紹介されたOさんに電話で話を聞きました。
今後、Oさんを通じても支援物資を送っていただきたいと思います。

※支援をお願いしたいもの= ミシン、アイロン、夏衣類、虫よけ、ハエ取りリボン、蚊取り線香等、、その他、生活用品、食糧等

<地域の実情>

○現在、自宅に住んでいます。
私の地区(平貝地区)は、海に近く、150軒以上あった家が私の家を含む5、6軒を除いて全て流されました。
多くの人が避難所に行き、その後、仮設にも移っていますが、避難所に行きたくない人などが、親類宅に身を寄せたり、
二世帯が自宅住居跡地にプレハブを建てて住んでいたりします。この20数人です。近くに仮設があります。
私も親類から送ってもらった物資を、そういう方(自宅避難者)のところに届けてきました。

○電気、水道は2カ月ほどで復旧しました。いまは水も飲めます。しかし、プレハブの人は水道が引けていません。
近所の家から水をもらって生活しています。
仕事は、支援物資の運送やがれきの除去などがありますが、それも一時的なもので続くものではありません。
「自立」といわれてもまだまだそういうところまでいっていないと思います。

○不安定な生活のなかで、食糧から日用品まで支援をしてもらって困るものはありません。
今、心配なのは、海の近くでは水産工場の魚が腐ったりして、異臭がしたり
ハエが大量に発生したりしていることです。
特に蚊取線香や虫よけ、ハエ取りリボンなどがあれば、ありがたいです。
また、家財道具全てを失ったひとはミシンやアイロンも欲しいと言っております。

※注、中古ミシンは、物資で手にした衣類を手直しして、自分のサイズにリメイクしたいようです。
物を大切に長く着る方たちなので生活必需品のようです。

  <九死に一生を得たあの日>

○私は、震災の時、海岸に近く鹿折地区の老健施設「リバーサイド春圃」で働いていて九死に一生を得ました。
当時、施設では、デーサービスを含めて130人のお年寄りがいましたが、津波と寒さで57人が亡くなりました。

○津波が6メートルと聞いていたので、施設の2階に避難したのですが。2階に波が襲ってきてひとたまりをありませんでした。
それから、さらに車いすの年寄を職員総出で屋上に上げて夜を過ごしたのですが、その夜は雪で、再び会談の踊り場に降りてきて、
みんなで体におしめを巻きつけて一晩を過ごしました。おしめが私たちを救ってくれたのだと思います。

○夜に入って火災が発生して、目の前まで炎症しました。(自衛隊が気仙沼の火災を報じたがこれのこと)「火が移ればもうだめだね」
と話していたのですが、大津波のあとも何度もひいたり押し寄せたりしていた津波が、火を消してくれました。

○その後、職員でご飯を炊きました。おにぎりをつくったのですが、ふだんはおかゆしか食べない年寄もおにぎりを食べました。

  (6月21日)
※「リバーサイド春圃」について。『歴史通』で2号連続で「罹災体験記」を書かれた 気仙沼のかきの養殖業者で、エッセイストの畠山さん
のお母さんもここで亡くなられたことが分かりました。

写真上、小泉地区。まっすぐの道を走ると落橋した小泉大橋に至る(4月撮影)


お年寄り57人が亡くなった鹿折地区の「リバーサイド春圃」(5月撮影)

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